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日本武尊
御祭神(本社)
やまとたけるのみこと     ひろくにおしたけかなひのみこと
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(宗)武蔵御嶽神社 〒198-0175 東京都青梅市御岳山176番地 
Tel 0428(78)8500 Fax 0428(78)9741
大己貴命
少彦名命
廣國押武金日命  
(安閑天皇)  
  社伝によれば、創建はだい10代崇神天皇7年に武渟川別命(タケヌナカワワケノミコト)が東方十二道を
平定の時、大己貴命・少彦名命をお祀りしたのが起源とされ、奈良時代になり天平8年(736)僧の行基が
東国鎮護を祈願し、蔵王権現の像を安置したと伝えられる。平安時代の延喜式神名帳には、この地の地主神である大麻止乃豆乃天神社(オオマトノツノアマツカミヤシロ)として記され、古くより関東の霊山として信仰されて
きました。

  山岳信仰の興隆とともに、中世・関東の修験の中心として、鎌倉時代には有力な武将達の信仰は厚く、
金峰山御嶽蔵王権現の名によって信仰を集めました。特に鎌倉時代の武将 畠山重忠の崇敬は厚く、鎧・
鞍・太刀などが奉納され、国宝の赤糸威大鎧は重忠奉納と伝えられます。その後兵火で荒廃しましたが、
四条院の勅命により文暦元年(1234)散位大中臣国兼が派遣され、中興の祖と伝えられています。

  その後、延文4年(1359)管領足利基氏により社殿修築、永世8年(1511)三田弾正忠平氏宗により
社殿が建立されました。

  天正18年(1590)、徳川家康公が関東に封ぜられると、朱印地三十石が寄進され、家康の命により、
大久保石見守長安を普請奉行として社殿を改築。南向きであった社殿が、これ以降江戸の西の護りとして、
東向きに改められました。慶長11年(1606)
(現在の幣殿拝殿は元禄13年(1700に徳川幕府5代将軍綱吉の命によって造営されたものです。)

  人々の社寺詣でが盛んになるとともに、御師によって講も組織され、御嶽信仰が武蔵・相模を中心に関東
一円に拡がっていきました。

  そして、明治維新により御嶽蔵王権現改め、明治7年(1874)御嶽神社の社号となり、更に昭和27年
(1952)、武蔵御嶽神社と改め現在に至っています。
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 この『武尊深山跋渉之図(たけるのみことしんざんばっせうのず)』は、大正元年8月27日に神社に奉納されました。
 当初は昭和41年までは社務所前にあった額殿(がくでん)に、奉納の絵馬や開平三知流の奉納額などと一緒に飾られていました。(額殿は昭和41年9月の台風で崩壊して今はありませんが、横5間、奥行き2間半くらいの建物で、参拝者からいつでも御覧頂けるように戸は無く、開け放たれていました。6月晦日の大祓では、この額殿に茅の輪をつくり祭典を行っていました。)
 現在は、拝殿横に飾られ参拝者に御覧頂けるようになっています。

 この『武尊深山跋渉之図』は白狼黒狼2匹を従え歩き進む日本武尊が描かれており、12片に分かれた木の板に描かれています。図の右下には「明治42年英朋寫」の文字が薄く残り、額には菊花御紋章6つが配されています。この12片を組み立てると、縦238px横328pの大作になります。奉納された頃はまだケーブルカーも無く、山頂にある当社まで運ぶのは容易ではなかったといいます。
 鰭崎英朋氏が80歳の頃、この『武尊深山跋渉之図』を見に当社まで足を運ばれ、薄暗がりの中50年ぶりの対面をされました。英朋氏は、少しあせた画面を見て「色を直しに通わなくてはいけないね」とおっしゃたそうです。この図は英朋氏にとって、傑出した作品の一つだったようです。
鰭崎 英朋(ひれさき えいほう)作
   『武尊深山跋渉之図』