神社由緒

関東一円を見霽るかす「霊山」の歴史

盗難除け・魔除け・豊作の神として広く信仰されてきた武蔵御嶽神社。
古くからの伝統を受け継ぐ御師達が、参詣と修行の場を守っています。

奈良・平安の時代から、戦国時代まで

創建は第10代崇神天皇7年。武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)が東方十二道を平定の折、大己貴命(おほなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)をお祀りしたことが起源と伝わります。
文書に残る最古の記録としては、天平8(736)年に「僧の行基が東国鎮護を祈願し金剛蔵王権現像を安置した」とあります。これ以降、蔵王信仰・修験道・山岳信仰の地として広く知られるようになったのです。
また、平安時代の『延喜式神名帳』には、この地の地主神である「大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのあまつかみやしろ)」として記されています。

中世になると山岳信仰が興隆し、戦国時代にかけて関東の修験の中心となります。特に鎌倉時代には「金峯山御嶽蔵王権現(きんぷせんみたけざおうごんげん)」として有力な武将達から信仰され、武将の畠山重忠は鎧・鞍・太刀などを奉納したと伝えられています。
その後、戦乱の兵火で荒廃しましたが、文暦元(1234)年に四条院の勅命で大中臣国兼(おおなかとみのくにかね)が派遣され、祭祀の司職と定められて中興。延文4(1359)年に管領の足利基氏により社殿修築、永世8(1511)年に三田弾正忠平氏宗により社殿が建立されました。

「西の護り」となった江戸時代

天正18(1590)年、徳川家康が関東に封ぜられると、神社には朱印地三十石が寄進され、慶長11(1606)年、家康の命により大久保石見守長安が普請奉行として社殿を改築。南向きだった社殿が、江戸の「西の護り」として東向きに改められました。現在の幣殿・拝殿は元禄13(1700)年に5代将軍綱吉の命によって造営されたものです。

関東一円に広がった御嶽信仰

江戸時代中期になると、庶民の「社寺詣で」が盛んになりました。御師(おし)の布教によって講が組織され、御嶽信仰が武蔵・相模を中心に関東一円に拡がっていきました。
その後、明治維新によって社名が明治7(1874)年に「御嶽蔵王権現」から「御嶽神社」に改められ、さらに昭和27(1957)年に「武蔵御嶽神社」と改めて現在に至っています。

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