摂社・男具那社

武蔵御嶽神社の奥宮、「男具那社」

当社の玉垣内より最奥、西南方向に望む奥の院。標高1,077m、山岳信仰の原初を感じさせる美しい円錐形の峰です。
そこには、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀る「男具那社(おぐなしゃ)」が鎮座します。

日本武尊から始まる伝説

『新編武蔵風土記稿』に、日本武尊と御岳山にまつわる伝説が記されています。
・日本武尊が東征の折、奥の院あたりで大きな白鹿に行く手を阻まれるが、太占により邪神であることを突き止め退治。邪神の遺した雲霧に道を失うが、突如現れた白狼に導かれ救われる。尊は、その白狼にこの地を守護するよう命じたところ、畏まった白狼は御岳山へと還り、火難盗難退除の守護神となった。
・尊が東征の帰路、奥の院に戻られた際、永きに亘る戦乱の旅を終えて、この国が千年先、万代の後も変わらず平和であるよう祈ったことが、国家鎮護の社と云われる由縁である。
・このとき、「武」具(甲冑)を脱いで「蔵(おさ)」めたことが「武蔵(むさし)」という国名の由来である。このことから山の名は甲冑(≒こうら)にちなんで「甲籠山(高良山)」とも呼ばれるようになった。
社伝によれば、守護神となる白狼に「大口真神」という名を与えたのも日本武尊だとされています。

『古事記』の東征では、妃である弟橘姫(おとたちばなひめ)が、荒れ狂う海神の怒りを収めるべく入水し波を鎮めたことで、無事に海路を進むことができた。妃の犠牲のうえに東征を成し遂げることが出来たのである。その帰路、東国を振り返りながら「吾妻はや(我が妻よ)」と言ったことが、この地が「あづま」と呼ばれる由来になった記されています。
奥の院の中腹には、弟橘姫さまを祀る石碑があります。奥の院へと登る神職は必ず石碑をお参りしてから山頂を目指します。

東征を終えて大和に帰った尊が、「大和は国のまほろば たたなづく青垣 山隠(やまごも)れる 大和しうるわし」と詠んだことからも分かるように、尊はこよなく大和を愛していたのです。

ここ御岳山から大岳山周辺の山並みは、奈良吉野の金峰山寺によく似ています。関東における蔵王信仰の中心地であり、早朝朝日に照らされて東京湾が光り輝き、まさに尊の足跡の地とも思われます。 
御岳山の歴史が日本武尊まで遡れるかは定かではありませんが、『延喜式神名帳』に記載され、平安後期の赤糸威大鎧が奉納されていること、また、境内で布目瓦が出土されていることなどから、少なくとも平安時代には信仰の対象になっていたと考えられます。蔵王信仰が全国に広がる中、山伏達が修行の場として御岳山に住み着いたとも伝わります。ですから、武蔵御嶽神社と日本武尊、奈良吉野山は一連の繋がりがあるように感じられるのです。
かつて日本人は「春になると山から神様が下りてきて、豊作と繁栄をもたらし、秋にはその収穫や繁栄に感謝し、また山に帰って行く」と考えていました。
武蔵御嶽神社の信仰は、「地主神(じぬしかみ)」である大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのあまつかみやしろ)として日本人がいだく「山の神」の信仰であると同時に、関東における蔵王信仰の中心地として、災難除けの「おいぬ様」、また奥の院に祀られる日本武尊に対する信仰が一体となり、崇敬を集めてきました。

講(こう)と言われる神社を崇敬する組織は、江戸中頃より関東一円に広まり、「春山」と呼ばれる御岳は今日でも4〜5月頃に多くの参拝者で賑わいます。昭和40年代初頭頃までは、春には男具那社にも神職が在駐するほど多くの参拝者があったようです。
武蔵御嶽神社にとって男具那社は、神社と一体の重要な存在なのです。

美しい山を、拝む

武蔵御嶽神社の玉垣内・最奥にある「大口真神社(おおくちまがみしゃ)」の左手奥に、「奥の院遥拝所(ようはいじょ)」が設けられており、男具那社のある奥の院の峰を拝むことができます。
「御岳山は元来奥の院を拝むための遥拝所だった」という説もあるほどに、御嶽神社から望む奥の院は特別に美しいのです。

修復された男具那社

江戸後期建立と伝わる社殿は傷みが激しく、平成17(2005)年に修復されました。本殿と表門は解体修理されて漆塗りとなり、覆屋は大きく本殿を含め玉垣内を覆い、以前より風雨や直射日光から護られるようになりました。険しい山奥の社なので、大工や銅板職人にとっては大変な作業となりました。
5月15日の御祭日の頃、周囲には「シロヤシオ」が美しく咲きます。

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