男具那社

武蔵御嶽神社の原点、「男具那社」

武蔵御嶽神の遥拝所からも望める奥の院。山岳信仰の原初を感じさせる美しい円錐形の峰です。
そこには、日本武尊を祀る「男具那社」があります。

日本武尊から始まる伝説

「男具那社」は、武蔵御嶽神社の摂社(せっしゃ)(神社ゆかりの祭神を祀る境内社)で、神社より西南方向、大岳山方面に徒歩40~60分、標高1077mの「奥の院」の中腹に、日本武尊を祀った神社です。

『新編武蔵風土記稿』には、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折、奥の院で邪神に道を迷わされた際、突然現れた白狼が尊を救い導いたと記されています。そして尊は白狼にこの地で火難盗難除の守護神となるよう命じ、以降、御嶽大神のお使いとして従うようになりました。
また、尊がこの奥の院に武具を納めたことが「武蔵」の国名の由来と言われ、この山は「甲羅山(高良山)」とも呼ばれていました。
『古事記』の日本武尊東征では、東京湾を渡る際に海が荒れ、妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)が入水してそれを静め、無事平定を終えたとされています。そして国に戻る途中、東京湾を振り返り「我が妻よ」と言ったことから、この地を「あづま」と呼ぶようになったと記されています。
東征を終えて大和に帰った尊が、「大和は国のまほろば たたなづく青垣 山隠(やまごも)れる 大和しうるわし」と詠んだことからも分かるように、尊はこよなく大和を愛していたのです。

ここ御岳山から大岳山周辺の山並みは、奈良吉野の金峰山寺によく似ています。関東における蔵王信仰の中心地であり、早朝朝日に照らされて東京湾が光輝き、まさに尊の足跡の地とも思われます。 
御岳山の歴史が日本武尊まで遡れるかは定かではありませんが、『延喜式神名帳』に記載され、平安後期の赤糸威大鎧が奉納されていること、また、境内で布目瓦が出土されていることなどから、少なくとも平安時代には信仰の対象になっていたと考えられます。蔵王信仰が全国に広がる中、山伏達が修行の場として御岳山に住み着いたとも伝わります。ですから、武蔵御嶽神社と日本武尊、奈良吉野山は一連の繋がりがあるように感じられるのです。
かつて日本人は「春になると山から神様が下りてきて、豊作と繁栄をもたらし、秋にはその収穫や繁栄に感謝し、また山に帰って行く」と考えていました。
武蔵御嶽神社の信仰は、「地主神(じぬしかみ)」である大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのあまつかみやしろ)として日本人がいだく「山の神」の信仰であると同時に、関東における蔵王信仰の中心地として、災難除けの「おいぬ様」、また奥の院に祀られる日本武尊に対する信仰が一体となり、崇敬を集めてきました。
講(こう)と言われる神社を崇敬する組織は、江戸中頃より関東一円に広まり、「春山」と呼ばれる御岳は今日でも4〜5月頃に多くの参拝者で賑わいます。昭和40年代初頭頃までは、春には男具那社にも神職が在駐するほど多くの参拝者があったようです。
武蔵御嶽神社にとって男具那社は、神社と一体の重要な存在なのです。

美しい山を、拝む

武蔵御岳神社の境内にある「大口真神社(おおぐちまがみじんじゃ)」の左手奥に、小さな東屋のような「遥拝所(ようはいじょ)」が設けられています。
ここから、男具那社のある奥の院の、美しい円錐形の峰を拝むことができます。
現在社殿のある御岳山は、元来は奥の院を拝むための遥拝所だったという説もあります。

修復された男具那社

江戸後期建立と伝わる社殿は傷みが激しく、平成17年(2005)に修復されました。本殿と表門は解体修理されて漆塗りとなり、覆屋は大きく本殿を含め玉垣内を覆い、以前より風雨や直射日光から護られるようになりました。険しい山奥の社なので、大工や銅板職人にとっては大変な作業となりました。
5月15日の御祭日の頃、周囲には「しろやしお」が美しく咲きます。

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